神の世界に生きる試練という犯罪性のある罠を正当化する世界観との違い
天使も悪魔も神も仏も存在しない世界を選んだ(最初から其れが良かったけど早い段階で選ぶべき選択)事も懐かしく思いますが、別に大した偉業でも何でもなく、
考えて見れば
神から与えられた試練必要ない事項。崇拝する神とは思えないからね。大事な存在ではないのだからもう世界観が違う。無宗教、もう耐えられないしよく考えたら信仰に関与する自分が自分としては無理だったから後悔したんだけども
魂が無くてもいい、今まで経験した事を受け止める事。
個人差はあると思うけど時々信じられないよね?僕も信じがたい経験が少なくなかった、でも色々大変だったけど自分自身も問題があったと受け止め、自分は誠実だったかと考がえてみるとそうではなかったりする、其の時、偶に心が弱くなる感覚がします。其れでも色々偽計説もいろいろあった事を間違いないといつか初めて知り、これまで通り思い出しては自分が悪いのだとばかり思ってはいけないと思ってる。
最近特に仲良くない層の海外の人の一つの意見について賛成なのは多くの罠の無いが理想なのかな?
人ってうまくいった人々が見せている本性については賛成です、以前も記事で書きましたが自分が優位に立った時。其の人の本性が現れると思う。
ただ神は試練を与えるは拒絶するべき、無信仰だし、信仰をすべきように仕向けないでって思うけど、国教で其れが法規範囲なら其の時は形だけするかも(本当に無理そういうの)
神を仏も仏教も信じない、無宗教化は少なくないようですが本当の否定無宗教は少ないかもしれない、そういうあってないような不信心から耐えられなくなった己
が神からの試練であると言えるならば、もう既に多くの人が試練に落ちた、既に何処かで優位になった、其の時彼等も恐らく本性を現わしている、そう、そうだろうなと思った人々をうまくいかせているケースが存在するなら、そういう場合もあるのだと思う。
だからこそ、日本はこう言ったりしてたのでしょう、
人間は追い詰められたときに本性を現すという言葉
そういうケースについて考えてみるとあるけども…
其れは以前も書いた通り、ミスをしてダメなばかりかもしれない、
…
以前も書いた通り、
其の人の本性を表すという議題を考えた時、基本的に人は上手くいったときに本性を出すと思う。其れが一番出せない醜い本性と或いは一番美しい本性かもしれないですね。
だから今人々が感じている不幸の幾つかは機会を得た、うまくいった人々が出している本性の一部の答えかもしれませんね。優越感だったかもしれない、でもどうでもいいかもしれない。
此の問題についても以前書いた内容が浮かんできます。
合わない存在性について通常今はとか基本的には関係ないのです、
最初から理論上どうしても合わない関係性を抜いておく事、
嫌な感情を思うなら其の人と離れる事も時には大事。
名字を含む存在(名誉系(範囲は広いです)と不名誉系は合わない)、人種、経験的事実。歴史、
そういった問題が今まで通りネット論の宗教的考えにあった、魂の経験として受け止めるべきか知りませんが
特に意味合いが相対する存在や表記などの存在は合わないものは合わない、
よく考えたら人の事を考えれば嫌な奴になってしまうだけの関係の己を戒めるという僅かな反省点もあると思います。
そうしないとどんなに好意を持った人だったとしても
きっと多くの人がどうでもいい人ととらえてしまう事になると思いますね。

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