今の自分をやがて惜しまず・懐かしき成仏論について
生まれ変わりの繰りかえしの中に形が消失するというか
非常に考え深い、そういった気がする事は以前から書きましたが
成仏という事を目指してた中で、しがらみが深い場所を離れているのも又
執着を忘れる為か、帰依論とフランス?ローマはまた別で 正解なのだろうか?
今優れた過程を踏まえて来た者が現在の形を忘れたくないでしょう。
かといって苦しむほど、執着を忘れる為にと思えば
逆に不自然であったりする。
今ある形がかつて優れた経験があり繰り返しの中で似たようなケースを記憶しているとしても、執着を忘れて消えていく事が魂があれば新しい改善された経験になるのでしょうか?
苦しみを増やせば増やす程執着が生まれて執着論としてはダメになるかもしれん。
帰依論と執着の中で、ひょっとしたらいつか逢いたい人には良い形で逢えるのだろうかと期待してみたい気持ちがあります。何も知らずに流してた仏教という魂に関する求道ゆえかそのように考えたのか、又は経験した魂があるかのような経験の僕の場合、優れた新しい魂の未来に向けて
獅子座の下に生まれたローマの時刻は命の時間として魂が帰るべき場所がやっぱり世界にあるのでしょうか?現在は末期枝にあり、
母系、祖母系、色々な部分が夫々の領分で限界だあ、来世があればと思えど確信は無し。
やはり経験したようにその様な事があるのか、ふと魂がと浮かんできてしまいます。
経験としてだって何々だから競争は別に不幸なんだけどこういうとこがあるからきっと
もっと不幸な人が居るからと言い訳されて、其の人より要らない不幸になった感を抜けるべく
瞬発力が必要ですが人の感情は理屈でもない場合もあるのでどうにもならんものは離すべき
其れを想定することなんでしょう。
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